リンクスケーター


2023  WALLA

展覧会ページ


『wire mesh』『帆立』『光り始める位の赤』『銀幕』『車内の点滅する本』『コーニア』『ザラメピッドマン』『電気が走る』『マツ』『flat and smooth』『ピングーのサーモン』

作品制作と展示することとの間には、私にとって隔絶がある。展示会場である「WALLA」の一角は隣接する車道に合わせてこそげていて、その面には大きなガラスが嵌まっている。また、和室と白い壁面の部屋に 40cm弱の段差があったりする。
作品置こうとする場に「すでに起きていること」からも作品を決定することにより、目にしてきたものを実際の空間の中で提示することができるかもしれない。

何かを眼差すことは、その時々の足の裏から目までの距離や、立った地面の状態によって成立する。本展示では地面について、その上を自在に動けるものではなく、鉄道のように移動する範囲が定められているレーンのようなものと想定した。その観点に則って全ての制作を行なったというわけではないが、そのような発端から制作された新作 11点からなる初個展である。(向井ひかり)




上から1~2,5~14の写真 撮影:宮川知宙 

銀幕
アクリル、銀の布、空き地の映像

シルバーの布を張ると、明るい部屋の中でただの光の塊だったものが映像として認識できるようになった。昔の映画館では白色塗料の反射率が低かったため、アルミなどの混合物をスクリーンに塗布していたそうだ。繊維の液晶。

雑草がたくさん集まっていると、その一帯が白っぽい黄緑色にぼんやり光って見える。

アクリルの額に銀色の布を張り、猫じゃらしでいっぱいになっていた一区画の空き地の映像を投影し、WALLAの窓際に設置。

光り始める位の赤
アクリルキーホルダー、平塗りした画用紙

高校の美術の時間にアクリル絵の具を平塗りして12色相環を作った。紙に載せた後に色を変えたくなってしまい、何度も塗り重ねてひび割れた絵の具は最終的に厚み3mmほどに盛り上がり、デザイン科は進路の選択肢から外すことにした。

叩くことで金属疲労により鉄が破れてしまうため、時々火を入れて粘性を取り戻す必要がある。「鉄 温度  色」でヒットしたカラーチャートによると、紅色の状態がしばらく続いた後、朱色の光をたたえ始めるくらいまで熱せば良いようだ。

太陽を手で隠して撮影すると手のひらが赤く映る。白みがかっていてかつ蛍光オレンジに肉が透けて見える感じは、胎児のイメージ画像でも見る。

平塗りによる鉄のカラーチャートを、紙の厚み分削ったアクリルに載せて接着する。

帆立
木片、紙粘土、スピーカー、たべっ子動物を齧る音

「サメが水面を裂きながらこちらに向かってくるイメージ」をいつの間に習得していた。

千葉にて、港に向かっていくトラックと港からやってきたトラックが沢山道路を走っていた。

一説によると「ホタテ」という名付けは、貝殻を船の帆のように立てて移動していると考えられたことによるらしい。実際には吸い込んだ水を排出することで移動するのだが、風を受けて大海原のはるか遠くにシューっと進んでいく帆立を想像して面白かった。

レトロなサッカーゲームのようにホタテの動線に溝が掘られている。
箱の内部からたべっ子動物を齧るサクサクという音が聞こえる。

車内の点滅する本
映像

電車内で文庫本を読むとき、今読んでいる面とこれから読むページをまとめた束は、2つの面として見えている。2つの面は、車窓から入る光の移り変わりに合わせて明るくなったり暗くなったりする。そのとき、ページを押さえる爪にも光が移り変わっていく様子が映る。

白かったり光沢のある表面に比べると見づらいが、おそらく全身が点滅している。

マツ
紙粘土、アクリル絵の具、シャーレ

中学校になって授業でプリントを使うことが増えた。藁半紙のプリントに強弱のない線と点の集合で印刷されたマツカサのスケッチを、なぜかいつも濡れていた理科室の黒い机の上で見ていた。教科書でマツカサをカラーで見ると、雌花はベタベタしそうな感じに湿っていた。

パイナップルのあるツボを押すと、切り分けなくとも一つ一つの実がバラバラと取れる動画を見た。調べてみると品種にもよるらしく、スーパーによくあるパイナップルでは不可能らしい。
厚い皮のパイナップルがいとも簡単に解体される様子は想定外で、パイナップルとともにそれを見ていた私も辺りに散乱したようだった。

ワームホール

葉思堯


美術作品を目の前にする時、そのディテールが網膜に焼き付かれていくうちに、つまり
、ただよく見つめよう/見渡そうとするうちに、その焼き付きが進むと、気付けば突如こ
こではないどこかの時空が立ち上がったり、蘇ったり、あるいは覗けるようになったりす
る。作品が作る世界以上に、その相通のための通路の設計に驚嘆することが多い。相通の
条件として、何かしらの共通認識に基づいて、見る者が作品にあるいは作品間にルールを
見つける必要がある。ドラえもんの四次元ポケットは現実世界には存在しないが、ファン
タジーのルールを理解している私たちは納得する。しかし、それも「ファンタジー」を受
容した社会でなければ成立しない。最初にこの世界をどのようにずらして「ファンタジ
ー」が作られたか、そのずらす行為は何に基づいていて、そのずれを人はどう認識したか


この展示のルールを見つけるまでに、そのような「最初のずれ」「次のずれ」にたくさ
ん遭遇する。手渡されたハンドアウトを読みながら展示室を進んでいき、それの作品との
対応関係について思考が入り込もうとしたあたりで、文章の中のある不統一に気を取られ
る。ひとつの文のまとまりの中であるにもかかわらず、書き手の「向き」と、観客まで(
同時に当の作品まで)の「遠さ」が変化する。作品の前に実際に留まっている観客にとっ
て、それはまるで瞬間移動のように感じる。その移動は作者の移動であるが、文章を追従
する観客の擬似的な移動を引き起こし、観客の心理的位置と、先ほどまで唯一の現実であ
った「作品と相対している」位置の間にずれが生じる。そうなれば、文章と作品の関係を
容易に辿れないことより遥かに問題となるのは、観客が自身に認める時制と位置が不安定
になり始め、もはやある定点から作品に接近する方法、つまり自らがする/しないを判断
して選択できるよう色々な方法は気づかぬうちにすでに失効していることである。向井が
展示に寄せた文章に、「鉄道のように移動する範囲が定められているレーンのようなもの
」という表現があるが、展示を見ている観客はまさにそれに近い状態にある。

作品ごとにだけでなく、順番通りの作品同士の間にも、レーンは存在する。存在すると
いうより、自身の定立点を揺さぶられた観客が安定さを作品のほうに受け渡す/安定さが
作品のほうにあると暗黙のうちに認めるようになると、そのレーンが機能し始める。最初
、暗い廊下で『wire mesh』を見るための適切な立ち位置を工夫して定めようとするが
、『銀幕』の前に座る時にはすっかり自分の体勢を作品の要求に合わせることのほうが自
然に思えてくる。というのも、全11点の作品のほとんどが鑑賞者の身体の在り方に何かし
らのアプローチをしているが、その中で4番目の『銀幕』は、ただ光を目に受け止めると
いう、感受体に、つまり受動的になることを唯一ポジティブに求めている作品であり、こ
のタイミングで観客は留保をやめ、安定さを作品のほうに受け渡し、以降、「ずれ」は徐
々に安定した移動の通路に変わっていく。
『銀幕』は和室部分に配置された最後の作品である。和室にいる間、鑑賞時の身体の所
作は日常的な所作と重なることがあり、人のスケールで部屋を把握しうるが、もう一つの
部屋に踏み入れると状況は一変し、作品の自立の仕方が、人のスケールを借りていたとこ
ろから物のスケールの自律したそれに近付いていく。段差のある元の構造がその断層をも
って地面の非連続を示しながら空間の連続を維持するのに対し、段差を解消しているよう
に見える部屋を結ぶスロープが、接続をもって空間の「ずれ」と「相通」を同時に示すこ
とによって、二つの部屋を移動することは取り立てて転位の運動になる。二つの部屋を跨
ぐ4番目の『銀幕』と5番目の『車内を点滅する本』の二つの映像の接続と相違を経て、6
番目の『コーニア』の前で観客が体を折り畳む時に、その体や目は『帆立』を前にする時
と比べて幾分か、より自分側のものではなくなっており、最後の9~11番の作品(この3点
は形象にすべてを拠っている)の前に立つ時には、すでにピングーのそれになっている。

パピヨン本田

小平の住宅街のへき地で開催されてる向井ひかりさんの展示が、とてもよかったです。作家がめちゃくちゃ頑張って作っているけど側から見たら何を頑張ったのかわからない報われないタイプの美術です。 でもよく見るととてもいいのです。
 

かつて岡本太郎は作品の中での要素の決闘を対極主義と言って、万博で丹下健三のでかいガラス屋根を太陽の塔で突き破りました。 

彼にとってそれは命をかけた決闘でした。 

向井さんの作品は細胞くらい小さい要素がバトルするマイクロ対極主義です。 

民家の窓ガラスと命をかけた決闘をしているような作品です。小さいけど負けると死んでしまう虫の戦いのような切実さがありました。