顎の大きい犬

2020

2.3mm鉄板、2.3mm縞鋼板、12mm丸棒、銅線、発砲スチロール板


1,2,4~10枚目の写真 撮影:カン・ミンソク

この作品の構想当初は、新型コロナの影響で大学への入構が禁止されていた。
季節は春で、(特に思いれがあったわけでもないが)大学美術館の前にある芝生は今頃青々としているのかな、あそこに鉄の作品置いたら日光で相当熱くなるだろうな、鉄板に濡れた布を近づけたらピタッとくっつくのだろうな…と思いにふけっていた。

黒い鉄板に白いポスカで、これからかける予定のはしごを下書きした。数日後にポスカを落とすと、そこだけ日焼けから免れていた。

用意した鉄の棒の長さが足りず、溶接したり研磨したりして継ぎ足していった結果、真っ直ぐであるべきダボの足はあらゆる方向に曲がった。構造に嵌めずに、伸びた足は伸び伸びさせておくことにした。

風景かもしれないと作り始めたものが一面真っ白になった結果、像を結べなくなった。

何かを扱おうとするとき、ひとまず均らそうとする。直線や平面になった素材は重ねて整理しやすくなるし、均一に力が加えられることによってさらなる加工がしやすくなる。
本来扱えるものではない「鉄」を自分がどうにかできるとは思っていないのだけれど、自分と素材の間に「道具」や「言語(扱い方の知識の蓄積)」が入ることによって素材にアクセスできるようになる。(素材という言葉にしている時点で「扱えるもの」として見ているとしたら、原材料というか、鉱石というのか)

素材には様々なことが起こっていて、状態として真っさらというものはない。その状態と私の素材に対する認識との間にはズレがある。把握していない状況や特性がある。そのズレを利用することで、この素材があの素材・感覚と「似ている」と結びつけることができるのだが、ズレによって起こる作業上の危険も多い。

同じ工房内の鋳造用の窯で、ある日ブロンズ組が鋳込みをしていた。金属を溶かして高温の金属をなみなみとさせる窯に、私とはできることが違いすぎる…と憧れというよりもはや畏怖の念を抱いていた。みんなで金属が溶けているのを見るのは楽しかった。